(このブログは、東洋経済新報社刊「LIFE SHIFT2」を参考に、私の思うところを書いています。スタートは、昨年の7月10日です。)
新しい世代が生まれたかどうかは、社会に変化が起きたかどうかで決まる」と前回はまとめた。「そもそも“世代”とは、時代精神(ある時代を支配し特徴づけるような普遍的な精神、または意識)に対する視点を共有している同年代の人たちのこと」と、本では説明している。
昨日のバブル期の「横浜ストーリー」につなげれば、若者の性行為が当たり前に語られるようになった時代に青春時代を過ごした世代は、「自分の恋愛」に対しても、その「時代精神」と向き合い、相手との肉体関係について、それ以前の時代とは違う形での付き合い方を求めることになった。もちろん性欲は昔からあったものだろうが、以前は、それをいけないこととして抑え、正式な婚姻のような形の上での行為だった。それが1980年代頃は、恋愛は性行為を伴ってこそ本物のような意識が強い時代になったのだ。
ドイツの哲学者ハイデッガーは、「人はみな、世代の一員として同世代の人たちとともに生きることが避けられない。それにより、個人が生きる人生のドラマが完結する」と言っている。同じ時代に生きた世代は、同じ時代精神と向き合い、自分の人生を紡いでいくのだ。社会の急激な変化が、個人の生き方に反映し、その世代特有の人生スタイルに影響を及ぼすのだろう。
しかしそれをある年齢で綺麗に区切れるかと言えばそれは大変危険なことだろう。この頃NHKの「サブカルチャー」というドキュメンタリー番組が気になって毎回見ているが、社会の変化が商業ベースで若者に押し付けられることが多いのだ。ビートルズに代表されるようなグループサウンズが、とてつも無い利益を生むことを知った音楽関係企業は、その利を求めてチームを育て始める。社会に否定的な主張のロックグループがいたり、かわいい素敵な存在としてのグループも生まれた。どちらもメンバーには自分の考えとは異なるイメージを押し付けられル。自分のアイデンティティを隠し、チームの一員として生きることの悩みを抱えた若者もいたという。私の好きな伊藤蘭も、人気が出る中で自分の生き方が型にはめられ、家に帰ると部屋にこもっていたという。
恋愛至上主義のバブル期には、「クリスマスデート」がもてはやされ、高級ホテルの高い部屋から次々予約で埋まったという。二人の愛を育むために何十万円も使うのが普通。これも、社会の変化を商業ベースで利用し、「これが当たり前」「必勝コース」的なプランが雑誌を埋め尽くしていたのだ。これも「時代精神」だろうが、そこには常に時代を読み、その色付けを激しく盛り上げる人たちがいたのだろう。
世代のレッテル貼りに惑わされて、同じ世代の若者を同じ色付けで見るのは危険なことだろう。星座占いのように特徴はあるかもしれないが、それで全ての人間の型が一つになることはあり得ないのだ。前回の中年期の人の中にいる性交未経験者が、「自分は欠陥のある人間なんだ」と悩んでしまうのはそんなことから来るのだろう。同じ時代精神を共有して生きるとしても、そこに完結する人生のドラマはいろいろあって良いはずだ。