(このブログは、文藝春秋社刊「脳科学は人格を変えられるか」を参考に、私の思うところを書いています。スタートは、昨年の12月12日です。)
前回は、“幸福になれる三つの要素”のまとめとして「没頭」できる何かを持つということが、「人生に意義を見出していること」と書いた。心理学者ミハーイ・チクセントミハイは、人が何かに没入することを〈最適経験〉もしくは〈フロー〉と呼んだ。過去や未来についての意識は頭の中から消え、強烈な「今」という感覚だけが残る。その集中した瞬間をスポーツ選手は「ゾーンに入る」というらしい。
私は高校時代に忘れられないその「最適経験」の瞬間を体験している。一つは、体育の授業でサッカーの試合をした時のこと。コーナーキックのチャンスに私はゴールのまん前に位置をとった。目の前には私の動きを警戒してガードについている相手方の同級生。そして味方がコーナーキックをする瞬間、ふと映像が頭の中に流れ、自分は瞬間的に動いた。まず右へ一歩、相手はそれにつられて同じ方向に動く、その時さっと逆の左へ動くとボールが自分の方へ飛んでくる。飛び込むようにしてヘディングをする。当たったと思ったらもう自分の目はボールがゴールの真ん中に向かっていく軌跡が見え、キーパーの左上のあたりを抜けシュートが決まるのを見届けた。その時、キーパーが斜め上にのけぞるように飛ぶ姿勢も表情も見えた。それらの動きが一瞬のことなのにスローモーションの映画のように記憶に残っている。もう53年も前の授業の一コマだ。
もう一つは、放課後合唱班の友達と二人でサッカーをしていた。二人だけだったので、ペナルティーキックをすることになり私がキーパーの役になった。真正面から彼がゴールポストの上のバーギリギリの高さへ蹴ってきた。私にはその時、それがスローモーションのようにしっかり見え、タイミングよくジャンプしてキャッチした。パンチングで弾き出すのが当たり前のような良いキックだった。その集中した瞬間の心地よさと、映像がいつもよりゆっくり見えた不思議な感覚が忘れられない。それが「今への没入」の感覚で「ゾーンに入る」ということだったんだなと思う。余談だが、たまたまそのシュートをキャッチする瞬間を下校する仲間が見ていたらしく、「おー」と言いながら三人で感動の拍手をしてくれた。なんと三人ともサッカー部の選手たちだった。「〈フロー〉を体験している瞬間には、それが魔法のようにあっけなく成功してしまう」と本に書いてある。忘れられない思い出になるわけだ。何かスローモーションのように不思議な感覚だった。