(このブログは、文藝春秋社刊「脳科学は人格を変えられるか」を参考に、私の思うところを書いています。スタートは昨年の12月12日です。)
昨日は「自分は店に並んでまで買い求める経験はない。」と書いたが、振り返ってみると、大好きなラーメンを並んでまで食べていたことを思い出した。西鶴賀町にあった光蘭というラーメン専門店だが、学生の頃から飲み会の後は度々寄った。カウンター8席ばかりの小さな店だが、とても人気があっていつも混んでいた。カウンターで食べている人の後ろに立って待っていたり、店からあふれて道まで並んでいることもあった。ネギを縦に手で持って、包丁で斜めに薄切りにして麺の上に落とすのがすごかった。もう10年以上前に閉店したが、ご縁があるようで三輪小学校の校長をしている時、そのマスターが三輪神社前でお参りしていて、お互い顔見知りなので挨拶をした。
閉店した後、そのナンバーワン人気の味を学びたいと何人かのラーメン店主が教えを乞い、自分の店で提供するようにしたと新聞に出た。ファンだった私はもちろんその店をいくつも試した。そのうちの一軒が気に入って定期的に食べにいくが、そのラーメンを「王様中華」と名付けて出している。
私が「並んでまで食べたり買ったりしない」というのは、基本的には面倒というか、他にもっと好きなことややりたいことがあるだけで、「そんなことに無駄な時間は使いたくない」というような信念に基づいたものではない。また、そんな美味しいものを食べた記憶がないというのは、単に誰かに買ってきてもらったものだからだろう。もし自分が並んでまでして買ったものなら長く覚えていると思う。手間をかけていない分だけ記憶には残りにくいのだろう。それに価値を感じていないわけではない。
ただここで考えておかなければならないことは、自分が無意識のうちに作用している「注意」や「記憶」のバイアス(自分らしい偏り)が、“信念”にも作用するということだ。たとえば、「自分はかなり困難なことでも頑張ってきた」という思い込みが、そういうことを中心に記憶に残し、「人は状況が厳しい時も、頑張るべきだ」という信念につながるということだ。
それがそんなふうにいい意味で生き方を強くするなら良いが、本で紹介されているのは、誰でも何かしら持っている思い込みの事例だ。たとえば「女性は車の運転が下手だ」という信念にたどり着いた人は、女性ドライバーの悪例を数多く目に留めることで確認しようとする。運転が下手な男性や運転が上手な女性を目にしても、それは認識をすり抜けてしまう。つまり、その人の核にある信念に合致しないものごとは、目の前にあっても認識されないのだ。
私は役所に通っていた頃、毎日バスに乗っていたが、男性運転手の加速やブレーキの激しさにストレスを感じていた。女性の運転手の方が柔らかく発進もていねいだった。ただ、これも思い込みだろう。先日二日続けてバスに乗ったが、1日目の男性運転手はていねいで、アナウンスも親切だった。2日目の男性運転手は、時間通りに来たのでうれしかったが、激しい運転で、右車線に出て追い越しをかけたり、バス停近くで急減速したりと落ち着いて乗っていられなかった。時間正確に走ることに熱心なのだろうか。
人は、日常の中でいろいろなものごとを見たり聞いたり感じたりしている。そこで情報を選択し、判断し、記憶していく。しかし、そこにはその人なりのバイアス(偏り)があるのだ。それが偏った信念になるのは気をつけなくてはいけない。