(このブログは、文藝春秋社刊「脳科学は人格を変えられるか」を参考に、私の思うところを書いています。スタートは、昨年の12月12日です。)
昨日は、「はじめてのおつかい」を取り上げた。一人で買い物に行く不安、間違えたらどうしよう、道に迷わないかななど…たくさんの脅威がある。それに対して親が喜んでくれるかな、ご褒美をもらえるかななど、幼児なりに期待する報奨、その心の中の葛藤が面白いし、そこに成長の物語がある。その“報奨と脅威”については、1月13日にこのブログで扱っているのでよかったら見てほしい。
昨日紹介した子は、「ママ喜んでくれるかな」と家族のうれしさが何よりの目標で困難を乗り越えた。夕飯を一緒に食べながら、「またお使いに行くね」と、家族が自分を認めてくれるのを期待している。単なるご褒美のおやつやお小遣いとは違う“無形の資産”を知っているのはとても大事なことだと思った。
こういうアフェクティブ・マインドセット(心の姿勢)の違いは、「何に注目するか」とか「何を選択するか」という偏り(バイアス)が根本にあると見てきた。そのバイアスは、記憶にも作用するらしい。
私は、近くにおいしいパン屋さんができたとニュースで報じられて、駐車場に多くの人が列をなしているのを見たけれど、自分では買いに行かなかった。家族や友人が、その評判のパンを買ってきてくれて食べたらしいが、あまりそのことを覚えていない。わざわざ買ってきてくれた人は、私が覚えていないことに驚くが、そこが「記憶のバイアス(偏り)」なのだろう。
男女差や年齢、社会的経験の差、いろいろな条件にもよるだろうが、人によって興味を引く対象が違うように、記憶の差もそれにそって発生する。
私がよく覚えている記憶は、大学サークルの合唱指揮で、尊敬する音楽教授が「指揮が一流」と言ってくれたことかな。しかも仲の良かった女子から「そう言っていたよ」と聞かされたので一段とうれしかった。また、中学3年の冬、担任の言うことを真面目に実践して、「頭寒足熱」を実行するため、真冬に窓を開けて厚着をし部屋の暖房は無しで足をアンカに乗せただけで冷気の中毎日勉強した。結果、足にしもやけのようなものができて親を心配させた記憶もある。どちらも一言でいうと、目指すことが決まるとありえないぐらい頑張ることかな。
まあ、だからといって「あの人に美味しいものを買っていくのは無駄だ」などとは言わないでほしい。そのおいしさを喜んでいることは事実だし、食べたものの記憶は薄らいでいっても「ありがたい」気持ちや相手に対する評価は膨らんでいるので。