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認知バイアス(偏り)

(このブログは、文藝春秋社刊「脳科学は人格を変えられるか」を参考に、私の思うところを書いていいます。スタートは、昨年の12月12日です。興味のある方はそちらからご覧ください。)

 前回は、認識や解釈、対応の仕方などについて脳科学の面から整理しようと提案した。

 行動のスタイル、ものごとのとらえ方、そして生きる姿勢……それらがあなたの人生に起きることを左右する。それをアフェクティブ・マインドセット(心の姿勢)と名づけるのだというところからこのブログはスタートしている。

 そのアフェクティブ・マインドセットのおおもとにあるのは、わたしたちが世界を見るときの癖(それぞれの性格の根底にある想像力の偏り)だという。同じ出来事でもその状況をどう解釈するかは人によって違う。本に載っている事例を紹介したほうがわかりやすい。

 道を歩いている時、久しく会っていなかった知り合いがやってくる。けれど相手は、挨拶するつもりでいたあなたの横を一瞥もせず通り過ぎてしまう。さてあなたならどう感じるだろう。「無礼なやつだ、自分は好かれていないのだろうか、巧妙に無視されたのでは」と思ってしまうかもしれない。逆に、「相手は忙しくて何かに気を取られていて気づかなかったのだろう」と解釈するかもしれない。そういうすれ違いは日常にたくさんあるだろう。

 このようなものごとをどう解釈するかという偏りが、アフェクティブ・マインドセット(心の姿勢)のおおもとにある。私はけっこう照れ屋(恥ずかしい思いをしたくない)のところがあるので、演奏会などで客席に座った時、近くに昔の知り合いがいたりすることがよくあるが、声をかけようか、なんと言って声をかけようか、こっちのことを覚えていてくれるだろかなど、少し考えてしまうことが多い。気軽に誰にでもヤアっと声をかけられる人が羨ましいと思ってしまう。

 人間の心にはこのように、良いことや悪いことをすばやく察知したり、どちらとも取れるような出来事(社会的状況)を自分の良いように、あるいは悪い方に解釈したりする癖がある。それが、私たちが自分を取り巻く世界をどうとらえようとするかの土台になっている。それを認知バイアスというのだ。バイアスとは「偏り」ということ。

 先日、公民館の役員をしているので、成人式が行われ、その反省会をしたのだが、何人もの役員さんから、「写真を撮っていたり、話し込んでいてなかなか受付してくれないので困る」というような発言があった。私は、その入口の現場にいたが、懐かしそうに笑顔で話し込んでいる姿や、仲間を替えて写真を撮っている若者を見てほっこりしていたので、やはり教員とは感じ方が違うんだなと思った。私の発言の番が回ってきたので、「成人式は、一番は懐かしい仲間に会えることがうれしいと思っているはずなので、時間計画や会場の設営をそんな参加者目線でお願いできないだろうか」と発言してしまった。親たちは会場に入れないが、会場の外でやはり昔の親仲間と話し込んだり、子どもの写真を撮るのに熱心に取り組んでいた。そんな親が、時を経て役員になった時、親や二十歳の若者の気持ちを理解できなくなるのだろうか。