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楽観性は、同じ出来事をどう受け止めるかが分かれ道

(このブログは、文藝春秋社刊「脳科学は人格を変えられるか」を参考に、私の思うところを書いています。スタートは、昨年の12月12日です。興味のある人はそちらからご覧ください。)

 楽観と悲観を計測する測定法が本には紹介されている。私がやってみたら、最高点が24点なのだがなんと私は23点というかなり楽観的傾向が高いことが示された。この背景を振り返ってみると、いろいろな難題を乗り越えてきたこれまでの人生があるように思う。

 50代半ばの時、仕事にハマりすぎ、職場で倒れて救急車で運ばれ、脳内出血、心臓停止を経験した。1ヶ月ばかりでペースメーカーを入れて職場に復帰。生活を見直しストレスを減らすことを工夫することで、年間のペースメーカーの稼働時間は極めて少ない状況だ。

 一昨年の正月に、強烈なめまいで立ってられず水を飲んでも吐いてしまうという苦しい状態にみまわれ、市民病院の緊急外来の世話になった。その時は原因がわからず不安になったが、半月後に再発した時、なんと歩いていけるほど近くに「めまい科」を専門にもつ医院ができたことを知り受診。良性発作性めまい症と診断され治療薬を処方された。その後も定期的にめまい症発作が起き一年ほど苦しんだが、去年の3月以来ほとんど発作がない。今でも時々フワフワした状況になるが、慣れてきたのか気をつけていると1日2日で自然に治る。そんな医院が近くにできたことを自分は何か恵まれた存在だと感じてしまうのもポジティブな性格だ。そういえば、市民病院で心臓の手術をしてくれた先生は、私と奥様同士が仲良しで、とても親身になって治療に当たってくれた。その先生は忙しいのに毎日のように病室に見舞ってくれた。他にも神様が私に特別サービスしてくれているように感じてしまうことがたくさんある。

 楽観的傾向が強いからこのような出来事が多く起こるのか、良い出来事に恵まれたから楽観的な傾向が強くなったのだろうか?……だがそれについて視点を変えてみると以下のように全く違う解釈になると思う。

 悲観的な解釈で見ると、「自分は頑張っていたのになぜ心臓に発作が起きたりしたのだろう。」「ペースメーカーに頼って生きるなんて考えもしなかった。」「その上、めまい症で食事も受け入れられないことが私に起きるとは、自分は神様に見放されているのだろうか。」「たまたま状況が安定しているからいいが、次は何が起きるのだろう。」などと不安にさいなまれる受け止め方もあるのだろう。同じ出来事が気質の違いによっては、このように悲しい辛い経験として積み上げられていくのではないだろうか。

 確かに古希を迎えた私には、これからも体の劣化は否めず次々と悩ましいことが起きるだろう。でも、その不安に振り回されて生きるよりも楽しい時間を少しでも増やせるよう自分をポジティブな気質に起き続けたいものだ。