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協力して起こすイノベーション その10

 「自己再生のコミュニティ(支えと安らぎの人間関係)」をどう構築していくのか。参考にしている「ワークシフト」(プレジデント社刊)から離れて私自身の思いを発信していこう。

 身近な人と話をする時、どれだけ自分自身に語りかけるように自由な思いで語り合えるだろう。誰しも程度の差こそあれ、そんな仲の良い友人は欲しいものだ。

 そんな気の許せる関係の人がいないという人は、どこに原因があるのだろう。先日比較的若い世代の孤独死のことを扱ったが、結局「相手に気をつかう」ことに疲れているようだ。そういうことに苦手意識を持っているのだろう。おそらくこれまでの人生で、家族に冷たくされたり友人に大事な話を広められて嫌な思いをしたりといった辛い経験をしているからだろう。

 家族も含めて人との関係で、相手の話を聞き、内容を受け止め、自分の思いを語るという会話の中に、その人なりの余分な思いが入ってしまう。これまでの経験や知識、倫理観、社会状況の理解など、その人なりの生き方が背景にあって語ってしまう。相手の言うことをそのまましっかり受け止めて理解しようとする前に、自分の判断が壁を作ってしまう。夫婦や親子、仕事の相手などは、どうしても「どうするべきか」と見通しや結論が先に立ったり、それが自分にとってどういう結果をもたらすかという損得勘定も生まれる場合がある。

 シニア世代の発達心理を見ると、一番柔軟に相手を受け止められる熟成した世代だと言われている。長年の経験をもとに、「まあ、そんなこともあるだろうな」「この人なりに頑張っているのだ」などと柔軟に受け止められるのだろう。

 ところが、退職後の不安定な心理のために頑なになる事例も多い。「長年頑張ってきたのに俺のことを誰も相手にしてくれない」などと“疎外され感”を持っていたり、「こういう場合は、これしか方法がないはずだ」とか「お前はこんなこともわからないのか」などと自分の考えだけに固執したりといった頑固さがひどくなる例も多い。

 いつか紹介したタモリは「自分がいかにくだらない人間か思い知ることで、楽にもなれる」「今は頑張れって言いすぎる。それで生きづらくなっているんじゃないかな」など、何か肩に乗っている余分な荷物を下ろす気持ちにさせてくれる言葉を語っている。

 私も余分な思いを捨てて、目をキラキラさせて遊んでいる5歳児のようになりたいと思う。無邪気な気持ちで、人やものごとを受け止められるようになれたら良いのではと思う。