「ボッセ(頼りになる仲間・同志)」の話を続けよう。
昨日は私の最も苦手なことだと書いたが、最近のことでうまくできたなと思い返せるのは、長野市児童合唱団のことだ。長野冬季オリンピックの頃発足した小学生の希望者対象の合唱団だ。私が最後の勤務校として長野市内の小学校へ校長として戻った時、市内の音楽教科会の担当の先生から困っていることがあると相談があった。この20年も続いてきた児童合唱団が先生たちの協力を得られなくなって、希望する子どもたちはいるが廃止する方向で動いているというのだ。それまで市内音楽専科教員の当番まわしで協力を仰いでいたが、教員へのアンケートを取ったら、ほとんどの先生が「指導はできない、廃止やむなし」との回答だったという。やってもいいと答えたのは1年契約の講師の若い先生2人だけとのことだった。
私が世話係校長として担当することになった。先生たちの声を無視するわけにはいかないが、希望する子どもたちがいるのだから対応策を考えるので廃止するのは待ってくれとお願いした。半年かけて、校長会・教育委員会、音楽専科会などと調整し、存続の了解をとった。ただし、あくまで希望する先生にしか仕事は依頼しないこととした。
その年の担当係だった2人の音楽専科、2人の若い講師、私の同志ともいうべきピアニストに協力してもらって練習を行った。そのあと、説得に2年かかったが、コンクールで必ず上位に行くような力のある先生を2人口説いて同志になってもらった。以前のようにほっぺた回しではなく、8人ほどの同志で協力して指導した。
運営については私がほとんど一人で行った。運営経費を整理し、市からの補助金と、市内の音楽文化協会の支援金、そして子どもたちから、わずかな協力金を集めることにして、指導してくれる先生やピアニストには謝礼を確保した。ちなみに、児童から集めた年額は、隣の須坂市の児童合唱団の1ヶ月分程度で、今考えてもよく採算を取れるように頑張ったものだと思う。
その成果が認められて、ウィーン楽友協会合唱団が長野で演奏会を開くとき、賛助出演を依頼された。半年ほど前だったが、100人を超える合唱団で出演をと頼まれ、長野県内当たったがどこからも無理だと断られたそうだ。私は急なお願いだとは思ったが引き受け、同志の先生に協力を仰ぎ、児童合唱団と、その先生の指導する二つの学校の合唱団を合わせて120人近い子どもたちの合唱団を組織した。指揮は私がした。その記念すべき演奏会を最後に、あとは次なる指導者育成に力を注ごうと思った。一切の合唱指導は同志の先生に任せ、私は運営一筋を担った。
そして最後は、7年かかったが、長野市芸術館附属の合唱団成立を市に働きかけ認められた。小、中、高校生を募集したらなんと160人の希望があった。市内に希望する子どもたちがいるのを、運営が難しいからを切り捨てずに頑張ってきてよかったと思った。
思い出話になってしまったが、突然舞い込んだ難題を人任せにせず、希望する子どもたちがいて、それに応えてやりたいと苦労し、結果としていい同志に恵まれ、私の良い思い出もできた。ブッセを実感できた思い出だ。