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素敵な自分を見つけたい

 私が大事にしてきた言葉は、「自敬の念」つまり自分を敬うというか、素敵な存在として見えてくること。世の中には、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」があり、その選択を迫られるというか、やらなければならない立場に追い込まれることが多い。しかし、その二つが別な存在(集合)かというと、二つの円が一部重なっているというか、物事の裏表のようにも思える。仕方なしに始めたことが、やっているうちに面白くなってきたことはないだろうか。「やらなければいけないこと」が「やりたいこと」に限りなく重なってくるのだ。

 私は、中学で野球部に入った。しかし勉強が面白くなってきて家で3〜4時間は当たり前に予習・復習をした。ドリルよりも百科事典で調べるのが好きだった。文章題は何時間かけても解きたかった。でも運動部活動は疲れる。無理な日は、夕飯を食べてすぐバタンキュー。親が寝る時起こしてもらって、10時、11時ごろから明け方まで勉強することもあった。そして無理がたたって中学2年で病気になり、楽しみしていた燕登山にクラスで一人だけ行けなかった。

 2年生の2学期に野球部を辞めてフリーになった。ルーム長の仕事に専念し、会長候補になり、次点だったが、音楽の先生から「お前は人気がありそうだから合唱部に入って部長をやらないか」とのお誘い。「それは無理」的に二の足を踏んでいたら、担任の先生に職員室に呼び出され「やれ」の一言に「はい」と言ってしまった。

 成り行きで始めた合唱が人生の最も重い要素になるとは驚きだ。その変遷はここでは書かないが、いきなり部長で頑張っているうちに魅力に気づき、思いのほか力をつけてきた自分が好きになり、能力と意欲の上昇度アップ。そして、そんな自分の存在が頼もしく思えてくるという好循環。そうなると少々どころか結構厳しい状況でも乗り越える意欲が強くなり、結果に関わらず、そんな自分を褒めてあげたくなる。それが「自敬の念」だ。

 「ライフシフト」を連載してきたが、これからは「ワークシフト」(プレジデント社刊)をもとに私の人生論を磨いていこう。何からスタートさせるか考えているうちに「自敬の念」を語っていた。私は「なんとなく」生きているのが嫌だ。自分は何で、何を目指すべきで、何が嬉しいのか、ちゃんと考えていきたいのだ。