「余暇」の定義について「何を選択しどのような過ごし方をするか選択する」ということで前回話をまとめたが、ちょうど夜雑誌を見ていたらセネカの言葉に出会った。
ローマ初期の波乱の時代、ストア派の哲学者セネカは、皇帝ネロの家庭教師を務め、のちに補佐役となって政治を支えた。その後、ネロの暴政を制御できなくなり、のちにネロの命令を受けて自害するという波乱の人生だった。そのセネカの著書「人生の短さについて」からいくつか名言を紹介しよう。
「われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである」
「生きることから最も遠く離れているのが多忙な人間だ。生きることを知るのは何よりも難しいことなのだ。」
「ひとは、互いの時間を奪い合い、互いの平安を破り合い、互いを不幸にしている。そんなことをしているうちは、人生には何の実りも、何の喜びも、何の心の進歩もない。」
セネカは、人間を「忙殺の人」と「閑暇の人」の2種類に分けている。仕事をしっかりとこなしつつ、どこかゆとりがあり、時間を有効活用して人生を充実させるている人、これを閑暇の人というのだというわけだ。
私もかつて「忙しい」と連発して、当時の教頭先生の日報に「忙しいは、心を亡くす」ということだと書かれてしまったことがある。
セネカは、「すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。」と言っている。与えられた人生の時間をどのように選択して過ごしていくか、改めて見つめていこう。ライフシフトでは、レクリエーションではなくて、リ・クリエーション(再創造)という過ごし方を提案している。自分をどのように新しく創造していくのか。いよいよ本題に入っていこう。
(セネカについて参考書籍:プレジデント2022.3.18号)