余暇を「自由に使える時間」「自分で選択できる時間」「楽しい時間」などと言葉を並べて分析してみた。本当のところは何なのか?
同じ「子育て」に関することが楽しいと感じる上位にも下位にも入っていた。確かに子どもの話を聞き、笑顔で向き合ったり、寝る前に母親の読み聞かせを真剣な眼差しで聞く娘の表情を見たりするのは楽しいを超えて幸せな気持ちを味わえる貴重な時間だ。我が家の長女が幼稚園の年長組だった時、母親が読んでいたのはアルプスの少女ハイジの絵本ではなくて分厚い原作の訳本だった。その時の娘の真剣な表情は今でも忘れられない。
宿題も私はドリルや漢字練習をやるより、文章問題を時間をかけて解いたり、漢字のテストをしてできない字を覚えてもう一度試してみるのが好きだった。単に筆記の練習は嫌だが、クイズをやっているような気持ちになれるのは好きだった。
仕事も同じだろう。何か自分なりに目指すものがあってドラマチックにできる人は苦労が多くても楽しめる。料理などはその典型かもしれない。とても楽しい時間の過ごし方にもなれば、ストレスの溜まる嫌な時間にもなる。
余暇の定義の中で、「自分で選択できる」は、何をやるかを選択するという意味もあるが、どのようにそれに取り組むかという選択もあると思う。
時代の変化の中で、明らかに自由に使える時間は増えている。しかし、いまだに「時間貧乏」的な意識があるのは、レジャーにも追われて、本当の空き時間がないとの指摘もある。何も制約がなく、ボーッと時間と自分を見つめるような時間がないのだ。
それが、このコロナ禍の中でかなり多くなった。私も中学生の部活指導に毎日通っていたが、感染予防のためにかなり長いこと止められた。その間、コーヒーを淹れて庭を眺めながらiPadで原田マハの小説を読む時間が一番心が落ち着いた。自分の部屋にいながら旅をし人生を見つめ直すことができた。その時間を自分にとってどんな意味のある時間にするかがとても重要だと改めて思う。それもこうやってブログを書いているからこそ気づくことなのかもしれない。