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自分という存在の境界を広げる

 昨日は授業研究について書いたが、私が大きく転換したのは附属にいた時だ。国語の作文の授業の研究会だった。いつも良いところに目をつけ、発言もしっかりしているA子さんは対象児として授業中の取り組みを細かく観察することになっていた。ところが、なぜかその日は、じっと考えていてばかりで発言もなく、姿が読めなかった。同僚の研究会仲間からは、あの子では研究紀要の1章は書けない。ほとんど活動が見られなかったと否定的な分析だった。そこでまだ新参者の私が研究紀要の後ろの方の参考事例としてまとめるよう分担が回ってきた。

 私は授業者である担任の先生からその子の1時間目からの学習カードなどその子の記録資料を借り、分析していった。次第にA子さんの思いがつながって見えてきて、なぜあの授業の時は目立った動きが見られなかったのかわかった。運動会の綱引きで、大変な接戦で引き合いになった。普通は審判の先生がほどほどの時間で号砲を鳴らし、引き分けにするのだが、なんと決着がつくまで鳴らさなかったのだ。周りで応援していた教師たちも「何考えているんだ、早く鳴らせ」と呟きが聞こえた。A子さんは、その時の自分の心の動きを思い出し、諦めかけた自分の心や勝敗にこだわらず精一杯やろうと心が無心になっていく変化をよく見つめていた。それを分析していた私は、A子さんの姿に、哲学で読み合わせをしていた西田幾多郎の純粋経験を見た思いだった。なぜ発言しなかったのか、それは、周りのことは忘れて、今まで感じたことのなかった自分の姿に向き合っていたからだ。

 よく教師は授業研究をするとき、「児童の見方」を大事にする。しかし、教師の期待する答、予想する姿の反応を待つだけになっていないか心配だ。もう一度教師も自分の持っている児童の見方の境界線を広げ、児童の無垢な姿に寄り添ってみることが大事だ。

 私の知り合いの人の高校生の息子が、先生から「あなたは小学生の時、どんな子でしたか」と聞かれた時、「ボーッとしている子でした」と答えたそうだ。しかし、その子は実に授業での理解度が高く、さほど家で長い時間机に向かわなくても成績はトップクラスだそうだ。大人から見るとボーッとしているようでも、その子の頭の中では、イメージ的理解と言語的理解が活発に絡み合いながら飛び交い、知識をして積み込まれているのだ。そこで発言しようとか、先生は何を期待しているのかなど気にする必要はない。ボーッとしている中で、必要な脳の神経が情報を激しく飛び交わせているのだ。あと何分で授業が終わるかとか、お腹が空いたななどの余分な考えはまったく働かないのかもしれない。生徒を大人の感覚だけで判断してはいけない。

 エクスプローラーの話がとても関係ない世界に飛んでいるようだが、大事なことはライフシフトの本に次のように書かれている。

「エクスプローラーたちは、自分という存在の境界を押し広げ、固定観念から脱却し、ほかの人たちの行動をじっくり見る。システムの端に立ち、自分の思い込みや価値観に新しい光を当てるのだ。」真の探検者とは何か、自分ごとで考えてほしい。