大学生になって講義やサークル活動に専念するだけでなく、私の日常は大転換した。先輩に誘われて市民合唱団に入り、多くの社会人とふれ合う機会が増えたのはとても刺激が強かった。毎週練習後に飲みに行き、時には真夜中まで語り合った。学生の私は講義がなければのんびり寝ていることもできたが、翌朝8時から勤務のある先輩たちはよく付き合ってくれたものだと思う。
教員に採用されて下伊那地方で2校6年間勤めた。2校目は僻地校で仲間や子供との関わりはとても楽しかったが、やはり合唱団活動を続けたくて6年生を卒業させたのを機に自宅から通える北信に戻った。市民合唱団に再加入し、パートリーダーからコンサートマスター的な仕事まで任されるようになり、仕事以上に情熱を燃やしたこともあった。その中で培った人的ネットワークや経験はとても多様性に富んだものだった。
コンクールで全国大会に出場したり、県の派遣でウィーンで演奏会をしたりしたが、どちらも私がプロジェクトリーダーだった。長野市で世界合唱祭を開き、そのコンサート部長で、全てのコンサートを仕切った。一番大変だったのは、街頭コンサートも含めて6カ所で同時に演奏会を行い、その全てを本部に居て100人近いスタッフを動かして回す立場だった。合唱連盟の全国コンクールも主催者として参加した。こうした経験が、重唱コンクールを一人でも開催できたスキル(生産性資産)や何としても実現するという願い(活力資産)となっていたのだろう。
ウィーンへ県の使節団で演奏会に行く時には、勤めていた城山小学校の校内音楽会の練習日程(特別日課)と重なり、音楽専科が音楽会前1週間不在という困ったことになってしまった。本番の前日夜帰り、当日の朝6年生の合同合唱だけ指導して音楽会で指揮した。他のステージは全て担任の教師たちが仕上げてくれていた。普通はあり得ないことだろう。
ライフシフトには、「既存の行動パターンが外的な要因によって崩れ、リスクがついてきて多様な選択肢と向き合わざるを得なくなる。そして新しい生き方を意識的に構築していく必要に迫られる。そんな状況を“ルーチン・バスティング”(型にはまった行動の打破)と呼んでいる」と書かれている。そんな型にはまった行動の打破を試みることによって、自分の行動が変わり、新しい行動パターンを自分のアイデンティティに組み込むようになるのだ。
ちなみに、私が「ウィーンに行きたいのだが」と校長にお願いした時には、「それは無理だろう」とすぐ言われた。私も「そうだよなあ」と思った。部屋に戻って、退職願はどのように書いたらいいのだろうと考えた。それも選択肢の一つだったのだ。あまりにあっさりと私が引き下がったので、逆に校長は焦ったのか、すぐやってきて「ちょっと待て、何か方法を検討するから」と言ってくれたおかげで上記のように実現したのだが、今でもあり得ないことだなと思ってしまう。なぜ、あんなことが自分はできたのだろう。