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デジタル社会だからみんなで考え「共創」する社会

「物事をよく見つめ、その意味や根拠を知ろうとすることは面白い」と前回伝えた。そうやって日々過ごしていると、面白いことはたくさん身の回りにある。今日も家事をしながらたまたま見ていたYouTubeで台湾のデジタル大臣オードリー・タン氏の話がとても目を開かされる新しい発想に溢れ面白かった。

「テレビは何百万人もの人に情報を一斉に伝達できる。しかし、個々の声を聞き取ることはできない。」「デジタル社会では、誰もが自分の考え、思いを表現することができる。高齢者でそれが苦手な人もいるが、ならばデジタルを活用してその考えを収集する工夫をすれば良い。」など、なるほどなと思うことだらけだった。

 それ以外にもたくさんの刺激を受けたが、心に残ったのは「共創」という言葉だった。昨日のブログで国境の話が出た時、「共存・共栄」という言葉を使った。民族や国家の違い、個々人の違いを乗り越え共存・共栄すると表現した。オードリー氏は、それを「共創」という言い方で表現した。今それぞれの国などが持っているもの、目指しているものを実現することはもちろん間違ってはいない。しかし、どこかそこにお互いにある部分は我慢して調整するニュアンスがあるように思える。時代が大きく転換しつつある今の社会で、何か今までは誰も思い付かなかったような発想で、共に願うことを実現する。そのような創り出していく発想がないと、これまでと同じ壁に突き当たってしまう気がする。

 デジタル社会で個々の声が自由に世界を巡る社会で、人を中傷するような問題がよくニュースで取り上げられる。それをダメなことと決めつけるのではなく、この声を受け止め、その意味や根拠を探っていくことで、本当に目指すものを見出し、改善を図っていくのだ。中傷した人の思いはなんだったのか、その人の正義感なるものがあったとしたらどこから路線が捻じ曲がったのか。番組作りの関係者が出演者に本人の意思とは違うことをやらせたらしいというのなら、なぜそんな番組づくりをしなければならなかったのか。次々考え出せば最後には社会のあり方そのものに疑問が向けられる。オードリ氏のいう通り、個人の考えを発信することがいけないのではなく、それをしっかり受け止めてより良い社会にするために活かしていくことが大切なのだ。デジタル社会では、こんなふうに私が発信した事実が永遠に残る。生きた証をどのように残すかみんな真剣に考えなくてはいけない。