自分と社会を見つめる科学 その41

 これまでのブログを書き連ねてくる中で、気になっていることのメモがいくつか残っているので、今日からは若干それについて考えたい。

 青年期で自分とは何かを探し、就職して仕事や家庭と向き合い上り坂をひたすら進む成人期の特徴を整理したが、そこにおける「学び」は個人の責任(能力)の中で行われている。

 私の教員生活では、担任としてどう子どもたちと向き合うか自分の力で研修した。時には研究授業をして仲間や先輩と学ぶ場もあったが、最後は授業者としての自身のセンスが問われた。昔の徒弟制度のように、優秀な先輩から盗み取るような熱心さ・吸収力が大事だった。最近は、業務削減が重要とされ、研究授業などは精選されてきているが、指導力が高まらない中で、別な苦労を背負うことにならないか心配である。本来は、“教員を増やす”、“事務的業務や成績処理等の効率化を図る”などして、授業の準備や指導力向上に十分な時間をかけてほしいところだが。

 以前文科省の高等局の友人が講演会で使った資料をもらったが、驚いたのは、他の国の大学生の年齢構成の違いだ。

「各国の大学進学率と25歳以上の入学者の割合(国際比較)」(2005年調査)を見ると、

◯各国と比較すると日本の大学進学率は高いとは言えない。

◯また、大学入学者のうち25歳以上の割合は、OECD平均約20%に達し、社会人学生も相当数含まれる一方、日本の社会人学生比率は2.0%と低い

少々古いデータで、かつ調査方法などの詳細はわからないので申し訳ないが、各国の大学型高等教育機関に在籍している25歳以上の割合が日本は非常に低いのだ。もっと多いアイスランドは40.1%、2位がニュージーランドの36.0%、と続き、OECD各国は平均五人に一人が25歳以上ということだ。それに対し、日本は百人に二人だけという大きな開きがある。

 成人期、社会に出たからこそ学びたいことが焦点化されてきたり、より高度な資格を取ることで待遇の良い仕事に就くことができたりする。高等教育を受けることの意味を日本は見直さなくてはいけない。教員免許更新制がもう一年でなくなるようだが、ほんの数日間の研修をノルマにすることでどれだけ教育課題を解決できるのだろう。現場の課題を解決するために教員が求めていることを自身で学んでいける環境を整えることが重要だろう。子どもが下校し、勤務時間が終わってから、明日の授業の準備に追われる生活から解放し、自身のレベルアップを図れるような成人期の過ごし方はできないのだろうか。(続く)