自分と社会を見つめる科学 その33

 幸せな老いをとは何だろう。昨日の立川談志の言葉の通り、初めての70歳を迎え、経験したことのない日々を過ごしていくのだ。後戻りもやり直しもきかない、正解など誰も教えられない人生を生きていくのだ。大久保嘉人の例のようにサッカー選手の一流と呼ばれる人たちにも、自分の輝いている時を最後に現役を退きたいという人もいれば、レベルを下げたチームに移籍しても可能な限り現役でサッカーの世界で生きたいという人もいる。誰しも自分の人生では主役で、自分で選択した世界で生きていく。成り行きで「何となく生きる」のではないものを求める人ほど一流の世界を歩んできたのだろう。

 サクセスフルエイジング(しあわせな老い)の方策はまだ続けて発信していきたいが、そもそも「幸福」とは何かを考えるとき、紹介したい言葉がある。校長をやっていた頃、これをある会で紹介したら、「先生、そのメモもらっていいですか」と頼んできた職員がいた。彼女は、好きな人に裏切られ、叶わない願いに悶々としている人だった。「幸せになりたい」その揺れる思いそのものが、幸福とは別な道を選ばせてしまう気がする。彼女はその悶々とした何かを吹っ切りたかったのだろう。

 

「しあわせは、けっして目標ではないし、

 目標であってもならないし、

 さらに目標であることもできません。

 それは結果に過ぎないのです。」

 (「それでも人生にイエスという」(春秋社刊)より)

 

 この言葉は、ユダヤ系オーストリア人の精神医学者ヴィクトール・E・フランクルの言葉だ。彼はナチスによる強制収容所での迫害・苦しみに耐えて生還した。愛する妻と子供は収容所で死亡し、彼のみ終戦後に解放された。その過酷な体験を描いた著書「夜と霧」は全世界に衝撃を与えた。

 

 このブログで「しあわせな老い」を求めていくが、それを間違って捉えてはいけない。何か手に入れるものではなく、自分のあり方そのものなのだ。誰もが初めての老人期を自分の足で歩んでいくのだ。今ある自分をしっかり受け止め、幾つになっても大事に育んでいきたいものだ。(続く)