自分と社会を見つめる科学 その32

 サクセスフルエイジング(幸せな老いを迎える心理学)植木理恵著を読み進めていこう。

 葛飾北斎の「富嶽三十六景」を挿絵に「100歳の自分にも会ってみたい」という葛飾北斎70歳の挑戦が次のテーマだ。世界中の人々の目を惹きつけ、黄金比の極めともいえる構図のこの作品。それを制作した北斎は、「私は90歳で絵の奥義を極め、100歳で神の域に達し、110歳ではひと筆ごとに生命を宿らせることができるはずだ」と言ったそうだ。

 次の例として、著者が立川談志と対談した時のことが書かれている。73歳で癌だと告げられた時の医者との会話も面白いが、著者に対し「俺73だろ、『はじめての老人』なんだよ。あんたは30くらいかい?だったら初めての中年だろ。そんな勝手な区切りに『はい、今日から年寄りです』なんて慣れることなんてできるのかな、慣れたくねえなあ」と語られたそうだ。

 どちらも詳細は本を読んでほしいが、私が思ったのは、まさに誰しもはじめての年齢、はじめての日々を歩んでいるのだ。他人事ではなく、自分の目で、自分の足で歩む人生は全て初めてなのだ。

 立川談志も葛飾北斎も、俺の80歳は…、90歳は…、誰も決めてくれない。夢やビジョンはあるだろうがその通りになる保証は誰もしてくれない。自分の人生は自分で扉を開いて進むしかないと知っていたからこそ、こんな言葉を語り、一流の人生を歩めたのだろう。

 問題は年齢の区切りを感じさせるのが、歳とともに衰えていくことに出会うことであり、それとどう向き合っていくかだと思う。それについてこのブログに書きたいと思ったのは、2日続けてアスリートの人生の区切りを考えさせる番組を見たからだ。

 昨日はサッカーの大久保嘉人選手の引退宣言に至る人生のドキュメントが放送されていた。そして今日はプロ野球で震災で悲しみのどん底にあった東北に日本一の栄冠をもたらせた田中将大の「プロフェッショナルの流儀」という番組を放送していた。

 華やかなプロの世界を経験した彼らにとって、今をどう過ごし、これからをどう過ごすか、転機は必ず訪れるし、誰かに相談できることでもないし、戦う相手は「過去の自分」なのだと思わされた。談志が言うように、全てはじめての経験なのだ。他の人が「頑張って」などと声をかけることすらできない厳しい心のうちが表情に現れるのだ。うまい方法もなければ、用意された結論もない。「幸せな老い」とは何なのだろう。(続く)