前回は金子光晴氏の「おばあちゃん」という詩を載せたが、老年期の心理というより、年齢に関係なく病気で体が思うように動かせないという喪失の悲しみは、誰にとっても耐え難いものだろう。しかしそんな中にあっても、可愛い孫と過ごす時間のありがたさを本当に感じていなかったのだろうか。夫であるおじいちゃん(金子光晴)は、そんな温かさを共に感じあえるような日々の過ごし方を作ってあげられなかったのだろうか。
人生の午後を迎える壮年期(中年期)の女性が、10年、20年自分が青年期から成人期に過ごしてきた時を振り返り、やり残してきたこと、自分らしいことなのに後回しにしてきたことを振り返る「人生の棚卸し」をして、40歳代後半から新しい自分らしさ(アイデンティティー)再構築していくことについて以前触れた。老年期も同じように、仕事に追われていた時にはできなかったこと、興味はあったけど諦めていたことなど、新しいステージに向き合ってみることが大事だと思う。昔の仲間と合唱を始めた私にとって、それも新しいステージだ。学生だったことをは違って、新鮮な気持ちで付き合える。
最後に担任した生徒たちは、皆30歳代後半だ。今はコロナ騒ぎで止まっているが、成人式以来ずっと毎年飲み会を開いて会っている。同級会ではなくて、都合のつく仲間で新年会だ。東京からそのためだけに来るのもいる。私は恩師というより仲間らしい。「俺なんか行っていいのか」と聞いたら「先生がいないと寂しい」と言ってくれた。親からも懐かしがられていて、前回の時は、母親が宴会の場に顔を出して「先生会いたかった」と喜んでくれた。娘が結婚予定の彼氏を連れてきたということで、その時は、その男も連れてきて私に紹介してくれた。
もう私は先生という立場は忘れて、一緒に中学校時代を過ごした仲間として過ごしていきたいと思っている。たまに飲み会の場で、困りごとの相談もされるが、先生オーラ丸出しでもっとこうしなきゃダメというような話はしない。寄り添うだけ。私も自分の人生を振り返れば反省することばかり。「対象喪失」とはいうけれど、教師と生徒という立場を失くしても、新しく人生の仲間、先輩後輩として過ごすことは可能だ。一緒にいてほしい仲間としての魅力を出せるところに私の教育にかけてきたアイデンティティーを求めたい。
次回からは、私の人生論ばかりでなく、「サクセスフルエイジング」しあわせな老いを迎える心理学について参考書をもとに整理していこう。(続く)