新卒校での4年間を終え、2校目は下伊那の僻地校へ赴任することになった。長野の自宅までは片道車で6時間、電車に乗れば名古屋や静岡の方が県庁所在地としては近い感じなので、本当に長野県は広いと実感した。
僻地校なので少ない子どもたちとこれからはじっくり向き合えると期待して転任したら、私のクラスは43人。今までよりさらに多いのかと驚いた。上の学年は46人いたので、23人ずつ2クラス。私の下の学年は、干支の関係で子供が極端に少なく28人。おかげで、家庭訪問は、みんな余裕で終わるのに、私は、5日間びっしり詰まっていて大変だった。これで同じ給料はひどいとやや不満だったが。
そこで出会った校長さんはとてもほがらかであたたかな感じの人だった。教頭1校経験だけで校長昇任したやり手で、校長講話などもとても工夫して聞かせてくれた。職員の意見もよく聞いてくれた。思い出に残っているのは、ある懇親会でベテランの教務主任さんと私が教育指導に関する論議をしていて、私が熱く語っている時、「そうは言うけれど」的に教務主任さんが割り込んできた時、そばにいた校長さんが「まあ待て待て、最後まで聞こう。」と私の話に興味深く耳を傾けてくれた。私はまだ2校目の若手であるのに重点研究グループの主任を任され、授業研究にかなり入れ込んでいた。校長さんがそんな私のやる気をきちんと受け止めてくれていて充実した日々を送ることができた。
昨日のブログと合わせて整理するが、教育の世界は人間の関わりの中で育まれる世界で、教師自身が自分を磨き、相手の思いに立ってやる気を耕す場なのだ。教職員の人間性や仲間関係がとても重要で学び合っていくことが重要だと思った。それにしてもトップの校長さんも2年ずつ3人に出会ったが全部違う。あるべき姿は自分で目指すものを明確にして、自分で磨いていくものだと確信した。青年期に大学の講義以上に社会人である合唱仲間の刺激を大いに吸収し、教育の道に入って、先輩のいろいろな姿から、自分がなりたい姿を確かに持ち、自分で研修し、日々の授業にこだわりを持ち進んでいくのだと自身のアイデンティティーを確かに持つことができたように思う。
6年間下伊那にお世話になって、長野市の合唱団仲間が活躍する噂も耳にし、戻りたい思いが募っていたが、僻地校2年で教えていた子が卒業し切れ目が良いので、北信へ戻ることになった。3人目の校長さんはやり手だったせいか、山の中の学校に2年間居ただけで、県教委の要職に就くことになった。私は、同じ長野なので、自分の引っ越しも片付かないのに、校長さんの引っ越しを手伝いに行った。そのぐらい尊敬していたが、ご苦労も多かったのか、退職した翌年亡くなってしまった。飯田のご自宅まで私は弔いに行った。今でも忘れられない立派な人だった。(続く)