自分と社会を見つめる科学 その14

 私の社会人人生のスタートについて続けていこう。思い出を語る場ではないので、成人期の心理に関係する事例として取り上げたいのでできるだけ簡潔に象徴的な話題に絞るのでご承知を。もっと詳しく知りたいとか、自分も関係あるのでお話をしたいという人は、メールで声をかけてください。

 農村地帯で、8学級ほどの学校に赴任した。支えてくれる仲間のいない単級の1年生、しかも学校で一番人数の多い40人。新人にはたいへんなスタートだった。一切その物語は飛ばして、最初にお世話になった校長は、道場で習うような武道系の方で、自身の思うやり方を大事にし、守るべきことをきちんと伝えたい人だった。仲間との親善が大きな要素の職員旅行も、新任だからと私を呼び出し、「他の先生は移動中にお酒を飲んだりするが仲間にならないように」など指導を受けた。それはいいとして、約2時間しかない職員会議で、毎回校長先生の話は40分から1時間。忘れられないのは、年度末のPTA総会で、最初の校長先生のお話に55分使った。全部で1時間しかないのに大丈夫だろうかと心配したが、次の年、保護者の参加は激減。それで、「最近の親はこういうPTAの活動に関心が低くて困る」と言ったのは結構ショックだった。

 翌年、ある学年主任が提案した計画について、職員会議で気に入らなかったようで、自分の考えを言わずその先生の考えの不十分さを追究。まわりがうんざり。結局その場はその先生が頭を下げて計画を修正することになった。しかし、しばらくしてその先生が心身の不調で勤務できなくなってしまった。その学年のコンパで私より3歳年上のT先輩、私、それから一年あとに赴任してきた後輩のM先生、その男3人全員20代教師は、毎週飲み会を定例で開くことになった。「こんなことはあり得ない」と怒りの持って行きようがなく、毎週水曜日、職員会議のある日は飲み会をして、大議論をすることになった。議論と言っても、「あれはひどい、こんなことでは気持ちが荒れて家に帰れない」と理由をつけて飲んで、学校経営について議論。校長が替わっても続いたから、同士との会話が楽しくてしかたなかったのだろうが。

 次の校長は、180度転換。今考えると、職員の病を起こした学校なので、人柄のよい人を配置してくれたのかもしれないが。飲むのはとても好きな人。飯田の町で飲み会が終わった後、住宅まで私が鞄を持って連れて帰った。歩いていると「おい婆やんいるか」と声をかけて人のうちの庭に入っていく。「先生、知っているうちですか」と聞くと、「知らん」慌てて引き戻し、なんとか住宅まで連れて行きふとんに寝かせた。畑仕事をしていて職員会議に遅れたのは、キュウリやなすを作って休憩時間に漬物などを職員に出すためだったようだが。退職した後は、ある村の教育長になったので、人望はある人だったのだろう。まさかとは思うが、若者を育てるためにわざと手のかかる校長をやったのかなあ。愉快な人だった。ともかく、8クラスしかない学校に、20代男性教師が3人もいるなんて今では考えられないが、青春を謳歌し、自分らしさを大いに発揮することができた。(余談だが、3人とものちに全員校長になりました。議論が役に立ったのかも。)(続く)