自分と社会を見つめる科学 その7

 サマチャレ参加者の意欲の格差について、昨日は運営側の視点で考察してみた。送り出す学校側はどうなのだろう。例年やっている体験活動の一環だからとか、年間カリキュラムに位置づいているからとか、やることそのものの意味をあまり考えずに送り出していることが多いのだろうか。青年期の若者が「学ぶ」ということの意味についてよく整理してみたい。

 私はサマチャレ参加者へのメッセージの最後に「学校では学べないことをこれからもたくさん求め続け、宝物をたくさん見つけてください」と書いて締めくくった。でも改めて考えると、こういう社会との関わり、人との接し方、自分の将来像へのイメージこそ本当の「学び」ではないかと思う。もちろん数学や理科‥どの教科学習も大事だろうが、それは若者自身が目指す方向に歩み出し、仕事や趣味に必要なものとして求める時に本当に学んだ価値を発揮する。入試のためだけに学び、大学に入った途端、もう必要なくなるようなことになっていないだろうか。

 私は教育の道で生きてきたが、教員免許を取るために大学に行ったのだろうか。やはり良い教員として子どもたちと学ぶことを目指していたと思う。現場へ出て、不得意な教科でも、一生懸命教材研究をして、間違ったことを教えないように努力する。教科だけでなく、子どもの心の受け止め方、親との連携など、大学ではなかなか学べないことは、自分で学び続ける必要がある。それが一生続くのだ。

 牧野篤先生が、「認められたい欲望と過剰な自分語り」(東京大学出版会)という本の中で

「学びこそは、人々の私事的な営みでありながら、それそのものが労働の新しいかたちをつくりだしていき、その労働のかたちによって人々を媒介しつつ、人々そのものを流動的に結びつけていく相互媒介的な営み、つまり公共的な営みとして存在し続けるのである」と言っている。学びは自分の形成のためにしているようだが、その学びによって新しい働き方をつくり出し、その働くことによって他者と自分、人と人がつながりあっていく公共的な営みなのだ。

 「こんなこともわからないのでは、社会で無事生きていけないぞ」などと、生徒を脅して学ばせる教師は、最も大事な公共的な学びを獲得していないと言われても仕方ないだろう。ボランティアは、「自分から進んで◯◯する」という自発性を大事にする。だから、「自分さがし」の時期である青年期には願ってもないチャンスであることを送り出す学校側ではぜひ伝えてほしい。(続く)