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熟成するシニア世代 その22

 日々生活する中で、「なんとなく」ではなく自分の判断(選択)を大事にすることで、充実した人生、目指すものに向かっていく歩みを感じる人生を楽しんでいきたいと思う。それは誰しも願うことだろう。

 生きる中で、自分が「やらなければならないこと」「やるのが当たり前と世間に言われること」で、重い気持ちになることがある。逆に、「こんなふうにできたら楽しいな」とか「やってみたいな」と思うこともある。まるで二律背反のことに囲まれて、我慢してやっていることや、やりたいことなのにやらずに我慢していることがあるという人も多いだろう。

 「選択の自由」を命の次に大切なものとして語ってきたが、上のことからいくと、我慢なんかせずやりたいことばかり選択することでいいということになるが、それは結果として大変寂しい人生を送ることになるように思う。

 私は、もう20年、いや30年ぐらい前になるだろうか、哲学者の西田幾多郎の「自敬の念」という言葉に出会い、それを座右の銘として、教育の道、生き方探究の仕事に当たってきた。実は、このホームページの紹介ページにそのことを掲げてある。

 昨日の交通安全指導当番の例のように、やらねばならない仕事もやり方や目指すものを持つことで意味(その仕事の価値)が見えてくる。結果、子どもたちの笑顔のようにすぐ返ってくるものもあれば、子どもたちの育ちや先生との信頼関係のように時間をかけて返ってくるものもある。そんな生き方を積み重ねる中で、「やらねばならない」ことの意味が変わってきて、「やりたいこと」と重なってくる。数学の集合の円が、離れていたのが次第に重なり始め、やがて大きく重なってくる。つまり、やらねばならなかったことがやりたいことに重なってくる。そんな時、自分の姿が素敵に見えてくる。タモリが言っているように「振り返るのが楽しくなってくる」「お前も頑張ってるなあ」と自分を褒めたくなってくる。自分を敬う気持ち「自敬の念」は自身をとても幸せな存在と思わせてくれる。その思いは、さらにより高い価値の世界を求めて、少々辛いこと、人がやりたがらないことにも挑戦する意欲を支えてくれる。

 生涯現役で、自分の人生を充実させたいと思う人は、いろいろな意味で「いきがい」を求めていると思う。「選択の自由」は、やりたいこととやらねばならないことが相反するものではないということを知ることで、大きく転換してくる。(続く)