その9で「キネマの神様」について書いたが、昨日グランドシネマズに同じ題名の映画を見に行ってきた。志村けんが主演予定だったが去年のコロナ騒ぎで亡くなり、沢田研二が代わりに「ゴウ」の役をやっていた。おそらくそうだろうとは思っていたが、ストーリーは全然違うものだった。主な登場者の名前は一緒だったが、原作ではわきの人だったゴウの奥さんが主役的な存在となっていた。ゴウは、若い頃映画撮影にたずさわっていて、「キネマの神様」の監督のチャンスをもらいながら挫折するのだ。その70代終わりの夫婦の姿と若い頃の思い出シーンを重ね合わせて物語は進んでいく。これ以上ストーリーは、興味のある人のためにあまり触れないでおこう。自分で見てください。
確かにこの原作のストーリーを映画の脚本にするのはとても難しいことだろう。松竹の記念映画ということで、「キネマの神様」という題名が一番売りだったのかも知れない。ギャンブルに明け暮れ、飲んだくれて、若い頃の挫折から立ち直れずに家族の重荷になっている歳をとった親父を、見捨てず支え続けた奥さんの家族愛の話になっていた。志村けんだから、馬鹿な親父をひょうきんに演じ、周りの人の温かさが、見る人の心を打つものになるだろうと考えられたのかも知れない。ただ私としては、沢田研二に代わったのなら、ジュリーと呼ばれ世を凌駕した大物ぶりを生かし、映画を愛する情熱の一本通った親父として周りの人を感動させる姿を見たかった気もするが。
原田マハさんの原作は、彼女の実体験が三分の一ほど入っていると何かで読んだ気がするが、本当に人間の内面をよく見つめたものだった。家族に疎まれるような老人が、ずっと愛し続けた映画の世界に向き合うことになり、自分らしい言葉で名画の魅力を発信することで自分の生き甲斐を改めて見つけていく。そしてアメリカのプロの映画評論家の心まで動かし、彼の閉ざした心の窓まで開けてしまう感動の物語だ。確かに歳をとってお荷物的存在になっても支えてくれる家族愛は大事。でも、原田マハさんが伝えたかったのは、自分の中に育んできた大切なものを輝かせる思いだったり、その思いが本物ならば世代を越え、国境を超えて心が響き合うという美しさだったりして、生きていることの素晴らしさに気づいてほしいということだったと思う。
生涯現役というテーマで今研究を進めているが、自分の人生の終末期に、「挫折」や「反省」「申し訳ない」存在ではなく、60年、70年と真剣に生きてきた自分の魅力を思い返し、「初心忘るべからず」の心で、さらに学び続けて欲しいものだ。その具体的な歩み方に話題を向けていこう。(続く)