前回の続きで、赤字に苦しむ地方病院の立て直しに取り組んだ若い医師の話を掘り下げたい。なぜ偉大な医師であった父に逆らって荒れていた若者が、そんな医療の役目に熱意を持って取り組むことができたのだろうか。
そこには、現代社会の学習に対する理解の根本的な問題があるように思う。学力社会と言われ、高学歴がその人の人生を決めるような風潮がある。人は何のために学ぶのだろうか。追い立てられるのではなくて、真剣に願いを持って学びに向き合うことはできないのだろうか。本当に手にすべきものは何なのだろうか。
ここで話題にした医師は、医療が地域の困っている人を救う大事な役目であることを知り、それならば自分も医療の道に進んでも良いと気持ちを切り替えた。そしてそれを守り続けることが、アイデンティティクライシスを乗り越える唯一の道だった。地方の病院に行った時、その困難さから逃げたい思いもあったろうが、そこで諦めたら自分は何のために医師になったのか闇に飲み込まれてしまう。結果はどうであろうとそこで生き抜くしかないと歩き出したのだ。その時、彼の中で「自分の生きる道、世の中に存在する意義」としてアイデンティティが確かなものになった。結果ではなくて、自分の心のあり様が大事だと思う。
またその学びが、学歴を高め資格をとって安定した生活をするためでなく、社会とのつながりから目的を持ったものになっていたことも大事だろう。昔の職人は親方のもと、作業への参画を通して自分で技を磨いていった。憧れを持ち一流を目指し必死で学んだ。本来学習は、実践の共同体への参加の過程であると言われる。親や教師たちはそこを見失わず、社会に生きる一人として自分の想いを込められる仕事に就けることを大事にしてほしい。机に縛りつけて学力だけを評価にしてほしくない。医師だけでなく我々教員もそうだが、免許を取り職場に入って学びが完結するのではない。現場で対象となる人や社会と向き合ってから本物の学びを積み重ねていく。「でもしか先生」などという言葉が流行ったこともあったが、たとえ何となく教育現場に出たとしても、子どもと向き合う中で学び続け、周りも支え、この仕事を選んで良かったとなれば良い。そこでようやくアイデンティティクライシスを抜ける者もいる。親から引き継いで医院を担っている若者も、自分なりの医療との向き合い方や経営戦略を持ち、この仕事を選んで良かったと思ってほしい。学びのあり方研究も心理学の担う役目でもある。