「歌と健康セミナー」の賢く年を重ねる知恵の話題から、「人生は自分発見の旅」という視点で私のこれまでの歩みを語り始めたため、とめどなく続いていきそうなので、児童合唱団については、後日しっかりまとめたシリーズを出したいと思う。前回の続きで、児童合唱団の課題をどう解決したかだけ触れて終わりにしたい。
大勢の希望する児童になんとか応えられる工夫はできないか考えた。音楽教員たちは、市教委や校長会が主催者で、自分たちは頼まれてやっているボランティアという意識が強かったが、そこに大きなずれがあった。市教委は活動を認めるという名義的な支援と若干の補助金のみ。校長会は、創立の段階では大いに先生たちに働きかけたが、動き出してからは、監督的な「世話係」だけで、音楽専科会へのお任せで、誰が責任者なのか、中心になって支えているのか曖昧だった。
まずは、校長会の担当として私が運営に直接関わるようにした。募集のチラシ作りから、名簿管理、会計など、事務的な作業で教員たちに負担をかけないようにした。市教委との連携を深めるように動いたが、これは難しかった。市教委からの指導員委嘱状も22年度までで止められた。指導してもいい先生はなんとか4名確保できただけ。様々な調整を経て、半年後の11月に見切り発車的にスタートはしたが、私が事務も指導も中心になって行い、先生方に負担をかけずにできる方法を模索するということで理解をいただいた。
翌23年度から体制を立て直し始め、春からの募集を復活させた。教員だけでなく、地域のピアノの先生や信州大学教育学部音楽科の学生、合唱団活動をしている仲間などにスタッフに入ってもらい指導体制を整えた。教員も専科会の当番回しでなく、合唱に堪能な先生を説得して継続的な指導をお願いすることにした。全国的に人気の富澤裕先生に音楽監督として毎年来てもらい子どもたちが学校ではできない経験をできる場を提供したかったので、男声合唱団ZENから資金援助を受けたり、市の文化課から講習会として位置付けてもらって予算を組んでもらったりした。そして、私が社会教育主事をやめることになる平成29年に、長野市芸術館専属ジュニア合唱団設立につなげ、児童合唱団は発展的解消となった。なんと、その合唱団には市内から160人もの希望者が集まった。本題から外れるのでこれに至る子どもたちとの活動については、後日シリーズでお伝えしたい。
先生たちに一言言いたいのは、やらなければいけないからやるのではなく、子どもたちとともに目指すものが何かを忘れず、目を輝かせる場であって欲しい。負担は工夫して改善すればいい。ダメなことばかりに目を向けないで行こうよ。