メセナを仲間に任せて岡谷小へ教頭として赴任し3年。続いて豊科東小の校長として2年、附属長野小の副校長として3年、合計8年の旅を経てようやく長野市教育委員会傘下の三輪小学校校長として教員生活の最後を送ることになった。戻ってきてメセナ少年少女合唱団も気になったが、なぜこの長野市のホールには同じようなものがないのだろうという課題の方が重く思えた。長野市からメセナ少年少女合唱団へ通っている子もいるし、スタッフも主な人は長野市在住のメンバーだった。この大長野市には、須坂よりもっと大勢のやりたい子がいるのではないか。そちらに手をつけるのが私に残された責任のように感じた。
行政や文化会館のような組織が運営している子どもたちの合唱団はなかったが、教員たちの仲間で運営している組織はあった。長野冬季オリンピックの頃、音楽教師たちが力を合わせて、中学生の吹奏楽、オケ、合唱の仲間と、小学校の合唱団が組織された。スタートした頃は、私は長野にいなかったので詳しくは知らないが、学校の枠を超えて、小中学生の音楽文化のレベルアップを図りたいとの願いでスタートしたようだ。
中学生の組織は、主に部活動に入っている子たちの希望者が、冬場だけ共に練習し、合同で発表会をしていた。中学の部活動は盛んで、その年間計画の一環としてしっかり位置づいていた。発表会の準備も学校の仕事の延長で出張扱いだった。ただ、部活動のない学校の生徒が参加できないのは残念なことだが。
小学生の合唱団は、スタートした時は、全市の音楽教師の連携で、100人を超える団員で熱心に活動していたようだ。はじめは中学と同じように部活動の延長線上のようだったが、私が引き継いだ時は、部活動に関係なく、30人程度の希望者による細々とした活動だった。音楽専科会で毎年の担当者を決めて指導に当たっていた。国立から長野市立の学校へ戻り、私が世話係を任された時、まさにメセナの時と同じように、指導者が負担を感じていて、組織を解散する状況が迫っていた。活動が停滞する中で、前任の世話係校長が音楽専科にとったアンケートで、ほとんどの教員が、「活動の価値は認めるが運営は難しい」とか、「休日の指導は辛い」との意見が多く、指導をしてもいいと答えたのは、50校を超える市内の先生たちで、二人だけ。しかも1年契約の若い講師のみだった。(続く)