道徳とは何だろう。あるべき生き方を教える授業って何?附属でその根本的なところに疑問を持ってからずっと私にとって道徳は目をそらすことのできない課題となった。道徳で答えがひとつということも納得できない。
(研究の途中経過は飛ばして)私の道徳は、児童生徒が提示された状況の中で、自分が主人公となって、状況を理解し、自分ならどうするかと結論を導き出すことを大事にしている。だから資料は、登場する人物を客観的な立場で見るような物ではなく、「私は」と、自分がその状況に存在するような物にしている。再現構成法と名付けている授業論からスタートしたが、かなり自分の理念で形を変えているかもしれない。
そして、扱う徳目はいろいろあるが、基本的に重要なのは二つだと思う。ひとつは「人生は一筋縄ではいかない。でもだからこそ面白い(やりがいがある)」ということと、もう一つは他の人を理解し、協力し合うような「コミュニケーション力の向上」だ。
世の中に「正義」というような言葉を振りかざして他人の行動を修正しようとする人がいるが、むしろ、相手の立場やその人らしい考えを理解しようとしないで、人間としての正義が成り立つのだろうか。生き方を教え込むのではなく、与えられた課題を精一杯考え、少しでも人々のために解決の道を探す意思を育みたいと思う。
道徳資料で示された困難な状況に自分を置いて、どうしたら良いかと考えた時、答えはひとつではない。むしろ答えなどないかもしれない。だからこそ、どうやって一歩を踏み出すか、それを考えさせた。aという考えの子や、b、cと考える子がいるとして、それぞれの子が問い合う中で、aの子がAになり、bの子がBとなるようにより深まった考えになる時、その子にとって明日の行動につながる成長ではないだろうか。答えはその子の中にある。
その日教えるべき生き方は「挨拶ができるようになる」とか「約束を守るようになる」というように決められた答えにたどり着いて、これからは気をつけますと言えるようにすることが普通の道徳だ。でも各自の現実と向き合う時、答えにその子らしい経験に裏付けられたものになる。それは、「時には挨拶のできない時がある。でも僕はその苦しい気持ちをこうやって乗り越えていけばいいな」「約束が守れない時が僕にもあった。でも、それは自分がこんな気持ちに負けそうになったからだ。だから今度からはこうやって頑張ってみよう」などというように、人ごとではなく自分と向き合うことからこそ、道徳をする意味があると思う。資料を読み取って、先生が求めている答えを想像して、結論を賢く導き出すことに長けている子が、道徳の成績が良いということでならないか心配だ。