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「みんな一緒に」から「人とは違う自分に」に「◯◯たる自覚」を見る

 パターナリズムとは、パトロンの語源となったラテン語のpater(パテル、父)で、意味は強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意思は問わずに介入・干渉・支援することを指すとのことだ。

 様々な職場・団体で基本的に守るべきことは当然ある。服装や言葉づかいから始まって人間関係に関することなどいろいろある。運動部など集団で行う競技は、皆がきっちり守ることで信頼関係が育まれ良い成績につながることも当然あるだろう。ただそれが何を守ためにどこまでやるべきことなのか、いつどのように検討・更新されているか疑問がある。私の指導する中学生の合唱部でも、約束事・守るべきことがたくさんある。先輩が残したものをコピーして新入部員に配り、最初のころ説明する。ただ、その中には同じような内容のものが整理されずに残っていたり、言葉ばかりで説明している上級生もあまり意識していないものもある。何のためにその約束があるのか考えてきただろうか。

 世の中にはそういった決まり事が多い気がする。話し合って考えて先輩たちが残したことはまだいいが、誰かが思いついて言ったことがいつの間にかルールになっていたり、役職の経験者が自分が大事にしてきたことを、決まっている約束事であるかのように部下に「こうしなくてはいけない」と言うのはいかがなものかと思う。そういう意味で「○○たる自覚」は大事な言葉だ。国立大学の教職員・研究者になった「自覚」とは何だろうか。

 先日見たTikTokで、船が沈みそうのなった時、早く避難させるために何と声をかけるかというのがあって面白かった。アメリカ人には「早く避難した方があなたの利益になります」イギリス人には「早く避難するのが紳士的な行動です」ドイツ人には「早く避難するのが決められたルールです」そして、日本人には、「みんなで一緒に避難しましょう」だという話だった。そんなことで国民性を色付けするのはいかがかと思うが、なぜかそうだろうなと心に落ちてしまうこともある。

 牧野篤氏の著書「農的な生活がおもしろい」の前回紹介した部分は、「『みんな一緒に』から『人とは違う自分に』」という章だった。自分は何のために国立大学の職員になったのか、何をすべきで、何をしたいのか、それを見つめることから「たる自覚」は見えてくると思う。形だけで人のやることを判断してはいけない。(続く)