「夢」とは何か、「現実」とは何か、前回のブログでは高校生の演劇の舞台を通して考えた。小説で語りたかった平田オリザの思いを探りながら…。でも、それはよその世界のことではなく、我が家にとっても、これを読んでくれている多くの人にとっても身近な問題だと思う。シニア世代と言われる自分にとっても遠い過去のことではない気がする。「諦める」という言葉は嫌いで、使うなと自分に言い聞かせてきた。我々戦後世代が育った時代は、高度成長期で、過去の枠から飛び立とうとしていたし、「夢」という言葉があちこちで語られていたのも思い出される。
「夢」という言葉が誤解を生む原因かと思うが、誰しも自分の目指す方向を持つべきだと思う。それは、漠然としたものかもしれないし、かなり具体的な内容を持ったものかもしれない。ただ、ここで問いたいのは、それに向かって「今」をどう生きるか、それが重要だと思う。
「幕が上がる」のさおりがつぶやいたように、「ここには等身大の高校生はいないけど、この舞台が私たちにとって現実だ。」そして「この舞台の上ならどこへでも行ける。私たちの頭の中は銀河と同じだ。どこまでも行けるけど、宇宙の端にはたどり着けない。どこまでも行けるから不安なんだ。その不安が現実だ。誰か他人が作ったちっぽけな『現実』なんて、私たちの現実じゃない」
我が家の娘を見ていてもそう思う。一人で考えて走り出す。強烈な夢を求めて進む中で方向転換は何度かあった。ニュージーランドの大学への奨学金付きの留学のチャンスもあったが、「今は東京にいたい」と断った。いつも親の想定の枠を外れる。ただ、そこに共通するのは、自分が納得するものに挑戦する心で、しかもその取り組みの中で一流でありたいと活動する姿だ。彼女の現実の舞台で「主役でいたい」というその姿が、「幕が上がる」で若者たちに伝えたかったことそのものではないだろうか。
この我が家の事例について、平成27年の「産業教育振興会第1支会」で講演をした時に、キャリア教育の話題として取り上げた。ただ、予定した講演時間が前の会が伸びたため、半分以下になり、十分に伝えられず残念だったが。願ったことは、若者を社会に送り出す高校の先生たち、それを受け入れる会社役員の人たちに、「夢」と「現実」の意味を考えて欲しかった。「主人公」として自分のやりたいことに真剣に取り組む若者を育てる熱意を持ってほしかった。