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心の花

「似て非なるもの」という言葉を私はよく使う。附属学校で教員を育てる立場を経験した私にとって、一番大切にしたかったことは、子どもたちの中にあるステキな宝物を(本人も自覚していないものも)見つけ、伸ばし花開くよう導いてあげること。

 私はベテランと言っていい年頃に松本附属小学校で音楽専科として勤めることになった。音楽は表現の教科だから、良い声でのびやかに歌ったり、表情の良い子はよく目につく。児童の取り組みを分析・研究するため、学習カードを毎時間使って、子どもたちの目標や振り返りを書かせた。丁寧に読み、教師の言葉をできるだけ受容的に書き入れるうちに、子どもたちが自分のことをよく見つめるようになり、求める世界が高まってくるのを感じた。(メタ認知力向上)

 Y君は、授業が終わってみんなが並んで「ありがとうございました」と挨拶をして教室に帰ってもカードを書いている。次第に書きたい気持ちがエスカレートしてきたのだ。紙の裏面までびっしりと書いている。その日一緒に歌った子(私の授業はいろいろな友達と二人組を作って表現を追求していく)の良い点をていねいに分析して書いている。このY君にとって、その仲間の魅力を感じることが音楽の喜びだったのだ。感性の高い子なのだ。それまで、私は、声や表現の工夫ばかりで子どもたちを評価してきただけではなかったかと反省した。

 附属教官として教育の道を学んでから、たくさんの素晴らしい子供達に出会った。でも思う。私が新米教師だった頃から素晴らしい子はいたのだろう。自分が自分の物差しだけで見ているので見つけられなかったのではないか。音楽は情感を大切にする教科だから、授業の準備を工夫しただけでは子どもたちはついてこない。心を通わせ、音楽の魅力や自分の可能性をぶつけたくなる意欲を育てないと本物になりにくい。

 附属長野小学校の副校長になって、ある時附属幼稚園の研究保育を見に行った。部屋に作られた坂を道具を使って転がる遊びだったかと思うが、一人の男の子が、真剣にやっていた。自分なりに工夫しながら目つきが真剣だった。そこへやってきた教師が、「もっとこうやればいいのに」と方向転換の内容で指導した。「ああ、もう一歩だったのに」と見ている私が残念になり、横を見たら一緒に参観していた教頭と目が合い、「ふー残念」という顔でにやけてしまった。その教頭は私と同じ教官時代に附属幼稚園にいた経験者だ。

 研究授業はなんのためにするのだろう。たくさんの授業を見たが、うまい授業なのに何か仕組まれた感じが強い授業は「似て非なる世界」と思えてしまう。児童生徒の内面から自然に出てくる探究心を感じたい。

 これから自分の世界で合唱団指導、公民館講座指導をするにつけて、「初心忘るべからず」は、その素敵な人たちに出逢いたい思いを忘れないこと。ブログを更新することで自分を叱咤激励している。スマートエイジングで紹介している世阿弥の能の理論書「風姿花伝」の中に、小野小町の「色見えで移ろうものは世の中の人の心の花にぞありける」が載っていた。心の花を大切に守り続けていきたい。